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2008年3月中旬 SUNTORY マーメイド2号 世界初の挑戦へ
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SUNTORY マーメイド号 MALT'S マーメイド3号 航海1989 航海1962
航海1962
“太平洋ひとりぼっち”
LEGEND
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“太平洋ひとりぼっち”として有名になった1962年の航海は「No Passport」「No English」「No Money」のまさに“密出入国”の航海で、堀江青年は即刻強制送還されてもしかたがない状況でした。当時のサンフランシスコ市長、ジョージ・クリストファー氏は、日本の青年の無謀とも思えるチャレンジを高く評価したく思いました。彼もまた、ギリシャの移民の子としてアメリカにチャレンジをした一人でもあったからです。サンフランシスコ市長、ジョージ・クリストファー氏は、側近として仕えた元アメリカ大統領アイゼンハワー氏と相談をしました。時は日米安保に揺れる時代。ちょうど2年前、アイゼンハワー氏は日本国民の激しい反対デモにあい、訪日を断念するほどの屈辱を受けたにもかかわらず「日本国民、特に若者のためになる事を」とクリストファー市長に一言助言をしたそうです。その事に意を強くした市長は、即刻、堀江青年をサンフランシスコの名誉市民として受け入れたのでした。それは日曜日の夕刻から月曜日の正午までの一刻を争う出来事で、移民局も名誉市民とする市の決定に密入国の青年の入国を認めることになり、局長自ら堀江青年を称え、1ヶ月の米国滞在を認めるとの異例の措置を言い渡したのでした。更に「コロンブスが強制送還されていたら、今日のアメリカは存在しなかったではないか。」というクリストファー氏の言葉に、サンフランシスコ市民だけでなく、アメリカ国民から堀江青年は称賛を浴び英雄になったのでした。(現在もアメリカでは堀江を知る人々は彼をレジェンド(伝説)の人と呼んで敬意を表しています。)
PRIDE
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日本は戦後17年、まだまだ辺りには戦後の残照が残り、若者の間には60年安保の敗北の無力感が漂っていました。そのような時代、日本国民には世界に目をむける余裕などまったくありませんでしたが、堀江青年の快挙は、当時、大変ショッキングな出来事で、それまで月に行くほど遠く思えていたアメリカが気が付けば手に届くほど身近に感じられたほどでした。沸沸と希望や夢、そして何かが出来そうな可能性みたいな熱きものが若者の胸に沸きあがって来ました。その後日本の若者が海外で雄飛する時代がやって来たのでした。クリストファー市長が、堀江青年に渡してくれた「名誉市民の鍵」は、実はアメリカが日本国民に贈ってくれた大きなプレゼントだったのです。彼の快挙は日本ヨット界の鎖国の扉を開いたことは言うまでもなく、1663年の鎖国令以来300年、日本国民を金縛りにしていた鎖国の精神的呪縛を真に解放してくれた出来事なのかも知れません。堀江青年が英雄になる報にアイゼンハワー氏は、「良くやった」と市長を高く評価したそうです。市長はそのことを誇りに思い、今日まで自分の胸にしまっていたのでした。